2070年、日本帝国、神戸スプロール。 新幹線の新神戸駅の傍ら、六甲山の山裾に抱かれるようそびえるホテル、クラウンプラザ神戸。覚醒前からこの地にあり、世界の大変革など知らぬげに下界へと煌びやかな光を投げかける。 最上階36階のレストランバー「Level36」で、一組のカップルが、神戸の夜景を眼下に納めながら夕食を楽しんでいる。男性は40代後半の日本人。落ち着いた雰囲気のベージュのスーツに身を包み、口元には髭を蓄えている。彼は窓際の席に陣取りながら眼下に夜景には目もくれず、相手の女性にばかり視線をそそぎ、まくし立てるようにしゃべり続けている。 一方女性は、20代中盤で褐色の肌にウエーブがかかった黒髪、胸元が大きく開いた深紅のドレスに身を包んでいる。女性は男性の言葉に耳を傾けながらゆったりと微笑んでいる。だが、その視線は男性を素通りし、眼下の夜景に注がれている。 「そう言った状況でね。僕もなかなか休みが取れないと言うわけさ」 彼は得意げに語る。さも、忙しいことが優秀さを象徴するかのように。 「あら、そんな貴重なお休みを私なんかと過ごしても良いのかしら? 奥様がお怒りではないのかしら」 彼女は冗談めかす。 「僕は一人身さ。仕事が忙しくてね。それに今まで君のように素敵な女性とも出会わなかったしね」 「あら、誰にでもそんなこと言っているんじゃないかしら」 いたずらっぽく微笑み、続ける。 「でも、あなたも物好きね。地位のある方がこんなホテルでエルフとディナーだなんて。会社に知られたら査定に響くのではありませんこと」 彼は不敵に笑い、よく通る声で返答する。 「何そんな狭量なことは言わせないよ。僕の会社で種族差別は無いからね。それにその程度で評価を下げられるほど僕は無能じゃないさ」 「あら、頼もしいお言葉ね」 彼女はグラスに残ったワインを飲み干し、妖艶に微笑む。 「そろそろ行きませんか。貴重なお休みでしょう。たっぷり楽しまないともったいないわ」 男はうなずきいそいそと立ち上がる。同時に自らの脳内に埋め込まれたコムリンク-進化した携帯-を操りレストランのシステムにアクセス、電子的に勘定書にサインをする。 そして、2人は腕を組み彼が押さえている部屋へと降りていった。 部屋は33階、神戸のみではなく大阪まで一望できる絶好の夜景。夜景を正面に据えたバーカウンター、そして当然のようにベッドは1つ。 「どうだい、まずは一杯」 女性は自然な動きでグラスとアイスボックスを引き寄せた。 「作るわ。何にします?」 男がコムリンクで操作をしたのか、部屋にジャズのリズムが響く。 「じゃあ、ブランデーをロックで」 彼女は迷わずコニャックのVSOを手に取り、慣れた手つきで指二本分ほどグラスに注ぐ。そして、マドラーを一閃。氷とグラスの混ざり合う涼やかな音が響く。滑らすように男性の前に置き、自らの分を作るために同じ手順を繰り返す。 男性はツーフィンガーのロックが出てくるとは思っていなかったのか、あっけにとられ一瞬の沈黙。 「酒に強いんだな」 「え。あ、いえ、あなたと同じ物を飲んでみようかと思ったの。これ強いのかしら。よくわからないんだけど」 アルコールに対する無知さを示すその言葉とロックを作る手際が見事に噛み合わない。 だが、彼はその台詞を信じたのか、女の嘘は疑わないのか相好を崩した。 「そうかそうか。これは甘みがあってうまいのだが、少し強いからな。ゆっくり飲んだ方が良い」 「そうなんだ。ええ、気をつけつるわ」 そんな、2人のやりとりを知らぬげに静かにグラスの中で氷が砕け、涼やかな音を立てた。 「1000万ニューエンの夜景か」 彼女はくすりと笑い、グラスを傾ける。 たわいもない会話が続き、アルコールはみるみるうちに減っていく。それに合わせるように男の自制心も減っていく。 「そろそろどうだ?」 いたずらっぽい笑み、蠱惑的とも、悪巧みをしているともいえる笑みを浮かべ、彼女は口を開く。 「そうねぇ。素敵なキスをしてから、あたしを生まれたままの姿にして貰えるなら、なんでもお願いを聞いてみたくなる気分ね」 男は待っていましたとばかりに、彼女の方に身を乗り出し、彼女もそれに応えるように細い両腕を男の首の後ろに回す。 瞬間、女性からアストラルの光が迸る。 通常の視野には映らない、魔法の光。 そして、男は地面に崩れ落ちる。くすりと笑い女が口を開く。 「惑乱、仕事よ!今からチップはあたしのコムリンクに差し込むわ」 女は、男のスーツからIDカードのような物を取り出し自分のコムリンクに読み込ませる。 そして、視野に浮かぶ何かをコピーするインジケータ。それが100%になった時点でカードを元に戻す。 「あとはこいつベッドに転がして、あたしと良いことをした夢を見せるだけね。肉体労働って嫌いなんだけどなー」 彼女は男を引きずりベッドまで連れて行った。 時間を数日ほど遡る。 三宮の繁華街をジーパンにTシャツという出で立ちのエルフの黒人女性が気楽に歩いている。彼女のコムリンクが呼び出し音を奏でる。着信相手はカオリ。馴染みのフィクサーだ。一瞬の逡巡の後コムリンクを取る。 「はい?」 瞬間、彼女の視界に黒髪を短く揃えた40代前半の女性がポップアップされる。 「はい、ティター。元気? 実はさ、潜入工作の仕事があるんだけどやってみない?」 事無げに打診をする。彼女にとっていつもの仕事だ。その屈託のなさからは影の世界で20年近くもフィクサーをやってきた人間には見えない。 ティターは自らのコンタクトレンズに投影されたカオリに対して、一瞬顔をしかめた後返答をする。 「ハッカーとメイジの2人組に仕事を振る以上あたし達向きの仕事なんでしょうね」 カオリは、ぱたぱたと手を振り、天気の話でもする気楽さで返事をする。 「ティター、あたしがやばい仕事回したこと合った? 長いつきあいなんだからもう少し信頼して欲しいわね。誰も彼も疑ってると小じわが増えるわよ」 ティターは鼻先で笑って答える。 「あたしには《ヘルシーグロウ》っていう便利な魔法使えるからね、あんたと違ってこじわは問題にならないのよ」 「で、どうするの」ティターの戯言をスルーして投げやりに尋ねるカオリ。 「オーケー。詳細を聞かせて」 「あたしは今回仲介だから依頼人と話して頂戴。ズーハイに6時でどう?」 「わかったわ。惑乱にも伝えておくわ」 「よろしく。こっちも依頼人に行くように伝えておくわ」 そう言うと、ティターの視界からカオリの姿が消える。 「やれやれ。仕事はいつも唐突ね。さてと、惑乱に連絡をして、と」 彼女はそんなことを呟きながら相棒のハッカーである惑乱へとコールを行った。 三宮エリアの外れにあるチャイニーズレストラン「ズーハイ」。隠れた名店と呼ばれるのにふさわしい店で。お手軽価格で本格中華が売りの店だ。 もちろんこんなご時世だ、天然素材はほとんど手に入らない。しかし、大豆ベース食品の使用によって高カロリーな中華がヘルシーになったと、逆に人気すら出ている。 そして、この店の大きな特徴は店内に監視カメラがないのだ。お客様に快適な食事をという店主の好みを反映した物だが、その結果、ティター達のような表沙汰にできない仕事をする物達が頻繁に会合に使うようになった。 約束の時間より少し早く、ティターが店に着くと顔なじみの店主が愛想良く声をかける。 「ティターさん、お連れさんは上にきてるよ」 「ありがとう。じゃあ、適当に始めちゃって」 そう伝えると、彼女は軽やかに2階へと上がる。 2階には仕事帰りでリラックスしたさらりーまんが群れる中、強ばった笑みを浮かべた男性がビールをちびちびとやっている。 「鈴木さん?」 一瞬の間。ビールを飲んでいた男が振り返り小首を傾げる。 「カオリから紹介を受けたものです。隣よろしいですかね」 鈴木はティターの尖った耳に目をとめながら不自然に微笑む。 「どうぞ。何か飲まれますか」 明らかな社交辞令。ティターの中で評価が確定する。 「そうですね、では台湾ビールを」 微笑みと共にオーダー。ここの支払いは依頼主が持つ。もちろん嫌がらせだ。 世間話もなく鈴木が仕事の話に入る。 「宮前電算という企業をご存じですかね」 記憶にはない。しかし即座に視界に宮前電算の情報がポップアップされる。相棒 のハッカーである惑乱の仕業だろう。 「確かミツハマ系のシステム設計の企業でしたかね」 たった今確認した情報をさも知っていたかのように話す。 目を見開く鈴木。知らないと思っていたのだろう。 「でしたら話が早い。そこの中央研究所の端末に無線送信ユニットを取り付けてきて頂きたいのです」 可愛く首をかしげ、先を促すティター。 「こちらの中央研究所は、完全オフライン環境でしてね。所員のコムリンクまで入り口で預けさせる徹底ぶり。データの持ち出しようもないと言う研究所なのです」 「つまり、枝をつけてこいって事かしら」 「その通りです。報酬は2000ニューエンお支払いいたします。ここの研究所は認証こそ厄介ですが物理的な警備は神戸市警に委任している状態です。そう危険はないでしょう」 一瞬の黙考。視界の隅には惑乱からのOKサインと、鈴木さんのプロフィール。恐らく鈴木のコムリンクをハッキングして引き出したのだろう。 鈴木さんの本名は高橋昌美。宮前電算の中堅社員。ということはこのビズは社内の内紛絡みか転職のための資料集め。 「オーケー。お引き受けいたしましょう。我々が枝をつける、あなたが報酬を払う。それでよろしいですかね」 「そう言ってもらえると助かる。では、詳細を詰めようじゃないか」 手を挙げ制すティター。周囲を警戒する鈴木。 「あ、いえ、とりあえず、何か食べながら話しませんかね」 相好を崩しうなずく。ティターがコムリンク経由で連絡をすると下からチャイナドレスを着たウェイトレスが鳥の唐揚げ、エビマヨ、バンバンジーと次々に持ってくる。 料理が落ち着いた時点で再度ティターが口を開く。 「付帯条件があるんですかね」 「2点ある。1点は柏木という男の使用しているコムリンクに通信ポートを取り付けて欲しい。もう1点は君が不正に侵入した痕跡を残さないで貰いたい」 眉をひそめるティター。 「それは難易度が跳ね上がりますね。不正侵入の痕跡は丁寧に調べられれば隠しきれる物ではありませんよ。ましてや完全オフラインとなるとなおさらです。ましてや下調べを考えると2000では少々安すぎるように感じられますがね」 鈴木は鷹揚に頷き口を開く。 「君の言うとおりだ。しかし、策があるのだよ」 「策?」 「そう。実は明後日から3日間、柏木が休暇を取っている。奴は無趣味な男でね。大抵の休日はデートクラブで相手を見つけて、神戸散策をしている」 ティターの視界にポップアップ、鴨が葱をしょって行進する画像。ティターは露骨にイヤそうな顔をしている。嘆息。 「つまり、柏木さんとあたしがデートをして、入門用IDを入手。彼のデート中にチームの者が柏木さんに成りすまして研究所に侵入するということですかね」 イヤそうな表情になぞ気づかぬげに、あるいはエルフの表情など気にする必要がないと思っているのか、楽しげに鈴木が返事をする。 「その通りだ。幸い彼はエルフフェチでね。君なら適任だよ」 「それで行くと、私は侵入中部屋で柏木さんと運動していないと行けないのかしら」 残念そうな鈴木の返答。 「いや、それには及ばない。当日三宮の北野地区で監視システムの一時メンテナンスがあるのでね。その際に偶然柏木の映った映像が消えることもあるだろう」 「わかりました。お引き受けるとお伝えいたしましたし、やらせていただきます。ですが、付帯条件があまりにも多いように見受けられますので、報酬を3000頂けませんかね」 一瞬視線を泳がせる鈴木。コムリンクで予算を確認したのだろう。 「残念だが、その金額なら他を当たらせて貰おう。2400で手を打たないかね」 ティターの視界では鴨ネギを黒人女性が絞め殺して貪り食うチビキャラのアニメが進行中だ。相棒は超乗り気らしい。 「仕方ありませんね。それでやらせていただきます」 「では、報告はカオリさん経由でお願いいたします」 片づいている、と言うよりは生活感が無い部屋の奥でかなりの身体改造を施したヒューマンの優男が有線で大型のコムリンクに接続している。 その傍らのソファーでだらけているティター。 ティターの相棒、惑乱のロフトだ。 「良かったの、こんな安い仕事引き受けて」 面倒くさそうに振り向く惑乱。 「構わないさ。面白そうだったしね。宮前電算は奇妙な会社なんだ。たいした商品を出しているわけでもないのに、がっちりしたセキュリティを張っている。一度覗いてみたくなるのが人情ってものだろう」 露骨にイヤそうな顔をするティター。 「くずみたいなヒューマニス野郎の仕事を安い金で引き受けた理由が好奇心ですって? そんなに好奇心旺盛ならドラゴンの巣穴でも漁りに行けばいいのよ」 ティターの不機嫌さを楽しんでいるのか、笑いながらの応答。 「まだ死ぬのはごめんだね。それにそう考えているのは俺だけじゃない。以前別のランナーチームが機密奪取の仕事を受けて失敗しているらしい。しかも、全滅だのなんだのではなくて、穴が見つけられませんでした、ごめんなさいときたもんだ」 怪訝な表情のティター。正直機密奪取だけなら研究員を拉致し、IDを偽造すればすむ話だ。 「入門にはID認証と指紋確認。外出する研究員には発信専用のGPS付きバイオメトリーが付いている。書き換えようにもばらせば機能停止、通信途絶があるとその研究員のIDは一時的に剥奪。入門時にコムリンクを受付に預けるがその時本人認証も行う。完璧だろう」 「ってことは、あたしもついカッとなってぶん殴ったりしたらまずいわけね」 笑いを深める惑乱。 「平手打ちぐらいなら構わないだろうが、物理攻撃魔法はまずいな。ただ、男が運動中に疲れて眠ってしまうのはありえるんじゃないかな」 「そうね。ベッドの上の運動で眠るのはあり得るわよね。で、翌朝本人が爽快に目覚めれば誰も問題にはしないと」 冷蔵庫からビールを取り出しプルトップをあけるティター。もちろん、惑乱の物だ。 「うんざりね。他に情報はないの」 「柏木は、研究所のプロジェクトリーダーの一人だ。偶然にも鈴木さんこと高橋は彼の部下の一人だな。偶然というのは恐ろしいね。そして、柏木は徹底的な分業制を敷く人物らしくプロジェクトの全容は柏木しか把握していない。恐らく高橋を籠絡した企業の奴は落胆した後激怒したことだろうな。まさか、中堅リサーチャーがプロジェクトの概要すら理解していないとは思うまい」 一本目のビールを空け2本目に手を出すティター。 「そこで、慌てて自腹を切ってランナーを雇ったと。馬鹿みたいな話ね」 「そうだな。ま、仕事は仕事だ。とりあえず侵入用IDとは別にコムリンクのアクセスコードが分かれば助かる」 酒の肴を探しながらティターが口を開く。 「聞き出せるわけ無いじゃないの。IDの時相手のコムリンクにつないであげるから適当に探りなさいよ」 肩をすくめる惑乱。最初からそのつもりだったのだろう。 「オーケー、なら段取り確認といこうじゃないか」 「スキミングをしてあたしのコムリンクを柏木のコムリンクに繋げば完了かしら」 「第一段階はな」 柿ピーをあけるティター。 「第二段階はあんたに幻影をかぶせて送り出すってとこかしらね」 「そうだな。そして最悪の第三段階。受付嬢が覚醒者だったらおれの正体がばれてカウボーイ真っ青なガンファイトを展開する」 やる気なさそうに柿ピーつまむ二人。 「じゃあ第四段階は私が悪いハッカーに騙されたと涙ながらに訴えるというところね」 嘆息。 「普通の研究所なら考えるまでもないが。今回は何とも言えんしな。なんとか確認取れないか」 「先輩のこと言ってるの?たぶん情報は握ってるでしょうけど、あの人取り立て厳しいわよ」 肩をすくめ嫌そうな顔をする。 「アレスの諜報部課長に借りを作る気はないさ。必要なデータを拾ってくればいいだろう」 指を鳴らしながら嫌そうにコムリンクを操作するティター。 「あの人のことだからまだ働いてるはずだけど」 数回のコール。その後視界に30代後半の黒人ヒューマン女性がポップアップ。 「あらティター、この魔力も持たない未開人に何か御用かしら」 深みがありよく響く声。 「先輩は覚醒しなくてもコーポレートマジックが使えるじゃないですか。この上魔力まで持ったら世の破滅ですよ」 いつものジョークなのか互いに口調が軽い。 「破滅させたいものね」 「それで地球にアレスのロゴを刻むんですね」 「失礼ね。私は慎み深いから地球=アレスになるだけで我慢するわよ」 しばらく発作のような笑い。 「で、用件は何?」 刃を秘めた口調。仕事モードというところか。 「実は今度ミツハマ系の宮前電算に遊びにいくんですがマジカルセキュリティについて教えてもらえませんか」 こちらは変わらずお気楽口調。 「そうね」 一瞬の間。自身のコムリンクにアクセスしているのだろう。 「アストラル捕食バクテリアと結界ぐらいで常駐の覚醒者はいないはずよ」 「偵察に行かなくて良かった。あやうく喰われるところだったわ」 ニヤリと笑う先輩。 「あそこに柏木っていうプロジェクトリーダーがいるから彼が誰のために何をやってるか調べておいて。最低でも4000は出すわ」 満面の笑みのティター。 「さすが先輩。愛してますよ」 「エルフは嫌いだから熨斗つけてお返しするわ」 耐えきれずに吹き出す先輩とティター。 「じゃ、人でなしはさくっと仕事してまた連絡しますね」 「ええ吉報を待ってるわ」 フェイドアウト。目を向けると呆れ顔の惑乱。 「どうしたの?」 「いや軽いなと思って」 「長年フォワードとバックスやってりゃあんなもんよ。とりあえずあたしが魔法でポカしなきゃ大丈夫ね」 うなずく惑乱。立ち上がるティター。 「もういくのか」 「だってこの部屋良い酒ないんだもん。ペンギンズで飲み直すわ」 正面には空き缶の山。良い酒がではなく、酒がなくなったが正解のようだ。 空き缶の山をみて首を振る惑乱。 「わかった。じゃあ俺はもう一仕事しておこう」 「じゃあまた連絡するわ」 後ろ手に手を振りながらでていくティター。 「ふふ、あのアル中が。さてデートクラブをハックするかな」 ティターが柏木と熱い一夜を過ごした翌日、早朝。 ホテル近くに止めた車の中で打ち合わせをしているティターと惑乱。否、惑乱を鋭い視線で見つめるティター。その姿には普段のだらしない彼女の面影はない。 そして、彼女の指が乾いた音を立てると惑乱の外見が柏木の物へと変わる。 「お見事」 続けてティターが鋭い声をかける。 「水の精霊よ」 彼女の傍らに透き通った女性が光の鱗粉をまきながら顕現する。 「なによー、昼寝してたのにー」 ぶつくさと文句を言う精霊。比喩表現だろう。精霊は眠らない。 「彼にかかっている呪文《物理の仮面》を、彼が元の姿に戻してくれというまで固定して頂戴」 「やだ。固定って疲れるのよねー」 鋭い目を向けるティター。 「ふう、仕方ないわね。早めに解除してよね」 そう言った瞬間、ティターにかかっていた呪文を維持するために負荷がすっと消え去る。 「じゃあ、あとはよろしくね。あたしは部屋に戻るわ。ちょっち疲れたから二度寝する」 手を振り振りホテルへと消えていくティター。 三宮地区南部、宮前電算中央研究所。散歩のついでに寄りましたと言わんばかりの惑乱。さくさくっと入り口の認証をパスして研究所の中へ。怪訝な顔で迎える受付嬢。 「あれ、柏木さん。明日までお休みではないんですか」 社員が休日中に出勤して仕事をしているなどと言われると企業イメージに関わる。だから休みの日は休みの日らしく会社などには来るな、彼女の瞳がそう語っている。 惑乱は拝むようにして彼女に弁解する。 「実は今日行こうと思っていたテーマパークのチケットをデスクに間違っておいてきてしまってね。取ってきてすぐ戻るよ。見逃してもらえないかな」 くすりと笑う受付嬢。 「珍しいですね、テーマパークなんて。分かりました、早く戻ってください。私が怒られるんですから」 「いやぁ、恩に着るよ。すぐに戻る」 コムリンクを受付嬢に預けて小走りで奥に向かう惑乱。 「デート相手の趣味かしら。柏木さんがテーマパークねぇ」 くすくす笑いを続ける受付嬢。ついついコムリンクのチェックを忘れる受付嬢。 無事奥のデスクに付いた惑乱。今日出勤しているスタッフも相当数いるが、全員コムリンク備え付けのディスプレイゴーグルで電脳世界しか見ていない。電子の早さで仕事をすれば仕事ははかどるが、防犯上はよろしくなさそうだ。 仕事熱心な俸給奴隷の皆様のおかげで問題なく柏木のコムリンクに到達する惑乱。横には備え付けのディスプレイゴーグル。それを無視して自分の首のコネクターにケーブルをジャックイン。明らかに不自然な行動だが、脳内に埋め込まれたコムリンクにデータをコピーするには他に方法はない。 一瞬の間。 柏木のコムリンクの内容から推測したパスワードであっていたらしく、無事にシステムへとアクセス。 プロジェクト詳細とクライアントとのメールのやりとりをさくさくっとコピー。ざくっと検索をかけると「構想(提出前)」というフォルダがあったのでそれもさくっとコピー。 ついでにプロジェクトリーダー権限で高橋のコムリンクからメールをコピー。あの迂闊さなら面白い情報がある可能性もある。 この辺で3分経過。怪しまれないためにもジャックアウトしてコムリンクに高橋から預けられた端末を差し込む。そのまま小走りで戻っていく惑乱。 今現在オールグリーン。警備が強化された気配もなければ、鉄格子が落ちてくる音もしない。 向こうから警備スタッフが歩いてくるが、小走りを維持したまま魔法の言葉を呟く。 「お疲れ様です」 警備スタッフもにこやかに言葉を返し素通り。受付嬢からコムリンクを受け取り脱出。 受付嬢のあのにやけ具合からして柏木がテーマパークに行ったと広がるのに時間はかからなさそうだ。 外に出て、人目に付かないエリアで呪文を解除。併せてカオリにコール。 「はーい、カオリでーす」 すぐに反応がある。 「仕事終了だ。鈴木さんにギャラを振り込むように連絡してくれ」 視線を泳がせるカオリ。 「ほい、お疲れさん。鈴木さんには連絡しておいたわ。確認次第振り込むって」 すぐに振り込み連絡。そう言えば先ほど鈴木も作業をしていた。 「ついでに、ティターにも連絡してやるか」 その日の翌日。惑乱のロフト。深夜。 「おつかれさーん」 勝手知ったる何とやらで、ティターが勝手に入ってくる。 惑乱も慣れたもので片手をあげて対応。 「最後まで怪しまれずOLのふりはできたか」 「たぶんね。今のところ神戸市警もミツハマのセキュリティースタッフも駆けつけてきてないわ」 惑乱は振り向き、ティターが小脇に抱えている木箱に目をとめる。 「ああ、先輩が報酬とは別に送ってくれたのよ。天然物の2020年物のナポレオンよ」 嫌そうな顔をする惑乱。 「なんでだ?」 不思議そうなティター。 「お礼だってさ。あと、カードが入ってたわ。お決まりの健康を祈るみたいな」 カードを受け取る惑乱。 「どこがお決まりだ。あなた方の優秀な腕に祝福を。今後の生存を祈ってこれを送ります、って書いてるぞ。どこの世界にお決まりの文句で“生存”なんて言葉を使うんだ」 「えーと。データ確認した? きっとあれ絡みだとは思うんだけど」 ざっとデータを走らせる惑乱。横で付いたままになっているホロビジョンにニュースが流れる。よくある交通事故のニュースだ。2人は気にかけない。 「ミツハマとも直接は関係ないヤクザ系のコープだな。まあ、ミツハマの子会社ならパイプがあっても何もおかしくないが」 ニュースが型どおりの文句を並べる。 「それって、ヤクザの黒幕がミツハマにも詳細は伏せておきたいようなプロジェクトの一部を走らせてるとかじゃないわよね」 「その酒が気まぐれでなければその可能性は否定できないな」 「腹を据えて飲みましょうか。合成物だけど生ハムも買ってきたし」 遠い目をする惑乱。 「そうだな。考えても仕方ないしな。英気を養うか」 どっかりと座り。グラスに貴重な酒をそそぎあける。ひとまずは今回のミッションの成功を祈って。 その横では、変わらずニュースが流れている。 「今日の夜半、宮前電算の高橋さんが暴走したヴィークルにはねられ死亡しました。神戸市警は彼が自らの違反をごまかすためにシステムへのハッキングを試みた結果の暴走と発表しており、今後はセキュリティーの強化と哀悼の意を表明しております。 |